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Der Garten der Deutschen Botschaft

 三枝摂津守は、二代将軍秀忠に仕えた守恵の子守俊で、明暦2年(1656)摂津守に叙任され、以後幕府の要職につき延宝8年(1680)には駿府城代を勤めて8000石の知行を受けていた。三枝氏はその後も代が続くので、ここの屋敷が無くなったのは多分屋敷替えによるものと思われる。
 一方の酒井氏は、徳川譜代の重臣であり代々武蔵国、上総国、安房国等で5000石余を領していた。三枝・酒井両氏とも外様、譜代の差こそあれ、旗本として徳川に仕えた武士たちであった。大使公邸の東門を飾る武家門は、この時代の武家達の生活の一端を知るよすがであるが、この門は後述の小泉策太郎氏が当地に移設したものである。

 大使館敷地の周辺で最も変化したのはその南側である。徳川幕府の権勢を反映すると同時に、この地域の住民に活気をもたらす直接的影響を与えた出来事として、白銀御殿の造営を挙げることが出来よう。大使館南側の土地は、1670年代には本多越前守の屋敷であったが、五代将軍綱吉がここに別荘の造営を計画し、建築資材運搬の便のため、古川を船が溯及出来る様開掘させる程の大規模のものであった。御殿そのものは元禄11年(1698)4月に落成したが、全体としての完成は元禄14年であったと伝えられている。この将軍の別荘は、白銀御殿と呼ばれ、白金とも書かれた。また、西方に富士山を眺望し得るところから「富士見御殿」とも呼ばれていた。
 大使公邸の庭の西南の一隅、富士山を望む位置に稲荷の祠がある。この稲荷は種々の史料に基づき、由緒ある富士見稲荷の旧祠であるとみなれている。

大日如来石仏

 富士見稲荷は、文政年間に幕府の御書院番により編集された「寺社書上」に収録されている「富士見稲荷由来書」によれば、創建の頃は前述の麻布御薬園の中に祀られていた。幕府がこの辺一帯に設けた麻布御薬園の管理を預けられていた池田道陸が、恐らくは伏見稲荷を勧請したものと思われる。続く時期に富士見稲荷は三枝摂津守の邸内社となったが、やがて白銀御殿(富士見御殿)が造営されるに及んで元禄11年3月御殿の鎮守として祀られることとなった。「寺社書上」にはこの間の経緯が記されている。然し、この御殿は完成後数年の後に―恐らくは将軍綱吉の死去によるものと思われるが―廃されてしまった。それに伴い御殿跡地は旗本、御家人或は富士見稲荷社地等に分割されたが、稲荷はこれら武家達を氏子として専任の神官も置いて多くの信仰を集めて存続していった。江戸には大小数々の稲荷があったが、江戸の絵図で付近の稲荷を省略しても富士見稲荷を省いたものは無く、明治年間の地誌もこれに十分な紙幅をさいていることからしても名祠の一つであったと云えよう。

 然し、参勤交替制の廃止や徳川氏の静岡退転によって武士達もその屋敷を離れて他地へと去り、東京となった江戸は著しい人口の減少をきたした。明治となって世情が急変するとともに、この稲荷も―恐らくは特定の氏子地域をもたなかったこともあって―急速に衰退していった。南麻布のこの地域も例にもれず急速に過疎化していったことは想像に難くない。

明治の後半になっても「当町は麻布区の辺隅にして、郡部に接するをもって幽僻の地たるを免れず。…‥」(明治35年「風俗画報」)といった状況であった。広尾ケ原に至っては、「一に土筆ケ岡と称す、もと摘草及虫の名所にして、又枯野を以って知らる。次第に旧観を失ふものありと雖も、尚は茅花風に飜へり、清流原野を縫ふの景趣を存し、宛然古武蔵野を髣髴せしむ。」(明治40年「東京案内」)と記されているほどであった。

 

高麗文臣石像

 南麻布の台地部分を大・中邸宅が占める傾向が出はじめるのは、ようやくこの頃からである。大正の中頃、この大使館と公邸のあるよ地に邸宅を建てた小泉策太郎氏(1872〜1937)はこの由緒ある富士見稲荷を引き継いで、折々神官を呼んで祭祀を行っていた模様である。当時政友会の重鎮であった小泉氏は、政治家であるとともに文人としてもその名が高く(号は三申)、また古美術収集家としても知られていた。収集品は多岐に亘っていたが、その後の所有関係の移動によって散逸したものも可成りにのぼると思われる。現在大使館に残っているものは、そのコレクションの一部である。

 明治の落語家で名人と称された三遊亭圓朝の有名な茶室(禅室)もこの庭の一角に置かれていた。茶室風の東屋は今も昔通りの場所にある。庭には深さ19メートルの井戸もあって、処々に配された大小の古い蹲踞や石灯籠も、四季の潅木とともにこの日本庭園に一層の景趣を添えている。また、日本の精神文化に多大の影響を与えた中国や朝鮮半島から渡来した作品も幾つか含まれている。その一つに印度から中国に禅を伝えた菩提達磨の像と七言絶句の彫り込まれている石碑があるのでここに取り上げてみたい。草書体のうえ既に読みにくい箇所もあるため大室幹雄、大角凡徹両氏の御協力を得て解読していただいた。

葦を折って揚子江を渡る図を詠ず

揚子江はどうして、この神のようにすぐれた僧達磨を波間に浮かべているのか。
それは彼が北方の魏の国へ仏の慈悲の航行をおこない、貴い大乗の教えを宣べ伝えるためである。
この大乗の教えの精神を求めようとするのなら、達磨が葦を折り、それに乗って揚子江を渡って、北方中国へ大乗の教えを伝えた、その彼の精神−それを描いたこの絵を見よ。
珍貴な旃檀でつくられた仏像のような高価で華やかな供物は、ただ「楞厳経」の教え−達磨の精神を冒涜するだけである。


達磨大師板碑

 少林禄寺とは、恐らく達磨が面壁九年したと伝えられる中国五岳の一つ河南省嵩山少林寺の末寺かと思われる。碑銘にある人物については不明である。北渡の途上葦に乗って渡河したと云うこの達磨の故事は、禅宗で好んで詠まれ、また描かれる題材であるが、専問家筋の説ではこの漢詩は特に秀れたものではない。 しかし、この点がかえって石碑の真正性を間接的に裏付けていると云えよう。


 この碑の近くの小高い場所に古い鐘楼が立っている。小泉氏がかって奈良から移設したものである。この鐘楼は、徳川時代前期京都近在三条村「瓦屋吉右門」により建立、東山天皇代元禄十六年(1703)亥年五月吉日奉納されたと記録にある。なお、梵鐘そのものは戦後に造られたものである。

 この「日独友好親善之鐘」は
 美しい世界は感謝の心から
 昭和三十四年七月 山岡孫吉

の銘が示す通り、日独交流に尽された故山岡孫吉氏が日独友好を念じて寄贈されたものである。鐘には更に

 DIE TÖNE VERHALLEN,
 ABER DIE HARMONIE
 BLEIBT      GOETHE

と文豪ゲーテの言葉が並んでいる。

尚、この鐘の図並に鋳作監督は、比叡山延暦寺、成田山新勝寺の梵鐘、奈良法隆寺金堂常夜燈などの製作で知られる重要無形文化財保持者香取正彦氏によるもので、富山県高岡市の老子製作所(老子次ヱ門氏)に於て鋳造された。

 ドイツ大使館は、前述のように明治5年に麻布より麹町区永田町−国会議事堂の隣り現国立国会図書館所在地−に移転したが、終戦間際の昭和20年5月25日から26日にかけての空襲によって破壊されてしまった。
 戦後7年の空白期間を経て日独の国交が再開され、ドイツ連邦共和国が最初に大使館を開設した場所は奇しくも再び麻布であった。昭和27年から35年迄麻布東鳥居坂 (現六本木5丁目)に置かれていた大使館は、その後まず大使公邸が昭和32年に、次いで35年初夏に大使館事務所がこの様な歴史をもった現在の南麻布に完成し今日に至っている。この二つの建物は地続きで、南側の庭園が中心的な位置を占めるよう配されている。因に、この庭は昭和30年代の中頃造園家として海外にも広く名の知られた故飯田十基氏の設計・監督により今日の形に改修されたものである。
 この間、日独関係の長足の発展と相俟って、多くの内外の人々をここに迎えてきた。この庭は日独交流の場と化し、遠来の客には日本の歴史や文化を知り、また庭園の美の一端に触れる契機ともなっている。

 


朝鮮形石灯籠

 

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