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Der Garten der Deutschen Botschaft
 
 
東京の港区麻布は、昔から外国公館の特に多い地域として知られているが、この傾向は既に幕末の頃から始まっていた。隣接の芝とともに、麻布は日本と欧米との外交史上極めて重要な意義をもつと云っても過言ではあるまい。この両地域には、その頃来日した外国使節の一時的滞在のため、或は公館としての駐剳用に幕府が指定した寺院などが多くあった。
 

 例えば、安政6年(1859)には、アメリカ使節公館がはじめて麻布の善福寺に置かれ、続いてイギリス使節公館が高輪東禅寺に、またフランス使節公館は三田の済海寺に設けられるといった具合であった。日本との国交樹立を目指して派遣されたプロイセン使節オイレンブルク伯(Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg 1815-1881)は、赤羽橋の外人接遇所をその宿舎としていたが、彼の帰国の後に最初のドイツ(当時はまだプロイセン)常駐使節として文久2年(1862)に日本へ派遣されたマックス・フォン・ブラント(Max August Scipio von Brandt 1835-1920)は、その後間も無く横浜から麻布善福寺の西隣り春桃院に事務所を構え、ここに慶応2年(1866)から永田町に移転する明治5年(1872)まで公館を置いていた。しかし、その後両世界大戦を含む文字通り目紛しい世情の変転を経て、ドイツがその大使館を再び麻布の地に設置する迄には実に100年に垂んとする歳月が流れたのである。

武家門

 現在ドイツ連邦共和国大使館及び大使公邸の置かれている南麻布は、武蔵野台地の先端部に位置し、公邸から南へは急斜面を形成しており、その下方に古川が流れている。三方に見晴しがきき、南面して海浜にも近い地形 − 先史時代はすぐ麓に海岸線があった − の麻布のこの台地では、縄文時代に既に人間の生活が営まれていたことは近隣の本村町貝塚(南麻布3丁目)などによっても知られるところである。また、大使館の向い都立中央図書館のある有栖川公園内には、原史時代の豪族の墓である古墳と伝承されている遺跡も存在している。

 「あざぶ」の名が、文字で確認出来るようになるのは永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」に記された「阿佐布」が最初といえるが、因に「阿佐布」が「麻布」と記されるようになったのは正徳4年(1713)頃からであると「文政町方書上」に記録されている。「あざぶ」の地名の由来は定かではないが、麻の生える土地とか、麻又は麻の布地の生産と関係づける向が多い。

 麻布は、時代の推移とともに盛衰はあったものの、港区全般或は東京都特別区域内と比較しても可成り古くから開らけた土地であったことは以上の点からも想像に難くないが、更にこれを裏付ける事例として、前述の麻布善福寺、氷川神社をはじめ他の社寺などこの地域に多彩な伝承が集中的に存在することを挙げることが出来る。それらが文書による史実としての保障を欠くとしても、麻布の地が民衆にこれを伝承させるだけの古い由緒をもつものであったことは明らかであろう。

 大使館の東側は、かつて麻布本村 − つまり麻布の中心地 − と呼ばれ、この辺一帯で中心的役割りを果していた。これに隣接する地域、即ちドイツ連邦共和国大使館及び同公邸の置かれている場所は、1967年に新住居表示によって港区南麻布4丁目と変更されるまでは、麻布広尾町と称していた。しかし、広尾とは本来大使館の崖下の南方及至は西方に広がる原野の名称であり、この「広尾の原」は江戸時代末はまだ原野の面影をとどめ、江戸庶民の行楽地でもあった。明治に至って東京市中全域に町名を付する際に、区画の便宜上大使館の地も一括して麻布広尾町のうちとされたのであるが、この土地が原である広尾を見おろす位置にあったことは、現在の地形からしても容易に理解のできるところである。  

 

現在の大使館の場所及びその付近を描いた江戸の地図で最も古いものは正保年間江戸絵図で、1644年頃の製作と推定されている。これは極めて簡略な見取図に近いものであるが、この図には大使館の向い、今の有栖川公園に当る辺りに浅野内匠下屋敷とある。浅野内匠とは、例の赤穂事件の浅野長矩と同じであるが、年代的には長矩切腹の50余年前のことであり、赤穂へ転封された彼の祖父長直の代であって長矩はまだ生れてはいない。因に時代がくだるとこの土地は奥州盛岡藩南部氏の下屋敷となっており、大使館前の「南部坂」もその南部氏の姓に由来している。また、大使館のある辺りから南方崖下古川岸に向って「御薬種畠」と記されているが、これは、所謂麻布御薬園のことで、正保元年(1644)に三代将軍家光が来遊した記録もあり、この南面の傾料地は製薬原料の栽培地であると同時に江戸住人の行楽地でもあったのである。

 その後の延宝年中(1670年代)より幕末の嘉永元年(1848)に至る迄の大使館及び公邸の所在する区域の変遷は、徳川幕府の普請方により編集された「御府内場末往還其他沿革図書」中に収録されている18枚に及ぶ図に於てその跡を辿ることが出来る。
 それによると、1600年代にはここ全域を三枝摂津守が領していたが、1700年代初期には南半分となり、北半分は酒井内膳及びその子孫が占る。 1800年代に入ると南北ともに酒井氏の名義となり、最後にその南瑞に小池氏が入ってくる。

 
続く…
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